babymetalを受容する(/しない)世界

アイドル(偶像)を求めるココロを通して妄想でbabymetalを考える

more than words

芸人?時代の竹中直人のネタに、

笑いながら怒る人、と云うのがあった。

 

(顔の)表情は、これ以上無い、というくらい

満面の笑みを浮かべているのだが、

怒鳴り声(コノ野郎、バカ野郎等)、と、

四肢の動き(往年の横山やすしもかくや)には、

怒りがこれでもか、と漲る。

 

舞台上の出来事としては予定調和だが、

日常に、コレ、が現れた場合、

私たちはどう評価するだろうか。

 

ある研究に因ると、

ヒトが会話時に(話者から)受け取るソースの内、

言葉、の割合は、10%、にも満たないと云うことである。

 

顔の表情、しぐさ、声の大きさなど、

(全ての事)の、ヴォリューム、トーン、スピード、ムーヴ、アクセントなど。

 

言葉にされない、情報(変化するもの)、が優先されるのである。

 

babymetalは英語で歌わない(しかも、ちょっこれーとー、だ)。

英語圏のメイトたちにとって、

それでも一向にかまわない

(ようである。むしろ歌詞を理解したい、と思っている人たちも居るようだ)。

 

言葉の持つ、不自由さやもどかしさ、は、

あらためて云うまでもないが、

こんなに、使えない、道具はない、であろう

(しかし頼らざるを得ない)。

 

私たちのココロの表層が言語で覆われているとすれば、

babymetalはもう少し深層に訴えかける、のであろう

(かと云って、ユングの云う、集合無意識、でもないであろうが)。

 

初めてbabymetalを観た者は皆、コンフリクト、を起こしたのであろう。

竹中直人の、笑いながら怒る人、を観た時のように。

そしてその体験は、意味も無く楽しい、のだ。

 

そして今も、babymetalを語る者たちは、言葉を探し倦ねている。