babymetalを受容する(/しない)世界

アイドル(偶像)を求めるココロを通して妄想でbabymetalを考える

babymetalは、ルネサンス

神神の世界では何でも(どんなことでも)起こる。

人間の矮小な思考など及ばないことが。

 

 

babymetalの素晴らしさは、

徹頭徹尾、フィクショナル、であることであろう。

 

3人の少女たちは、メタルネイムを持ち、

神バンドの構成員たる神神には(神ゆえか)名は無い。

 

 

我我の日常は味気なさ(と「息苦しさ」)に満ちているであろう。

それ故ヒーローやヒロインの存在は不可欠であろう。

 

babymetalは、今は絶滅してしまった恐竜のように

旧めかしく、懐かしく、そして(それゆえ)観るものを

惹き付ける。

 

我我は己の現実の有様に絶望している度合いに応じて

偶像を求めるであろう。

 

babymetalの(仮の姿である)プライヴァシーに触れたい、と

願う者はまだ、現実世界へのコミットは(比較的)容易だと

思われる(彼らの日常の酸素濃度は比較的「濃い」であろう)。

まだ、ガチだヤオだと議論できる余裕は残されている、で

あろうから。

 

そうではなく、もっとも危険な存在は(真剣に)babymetalの

行く末を案じている人たちであろう。

 

大抵の、親、は、子供の為、と云う

 、錦の御旗(身勝手な「愛」)を、振り回しながら子供に対し

少なからず(フィジカル、メンタルあるいは両面で)

虐待を加えるものであろう。

子供の持つ、耐性、の強弱に因り結果は様様に変わる

であろうが、

子供にとっては迷惑なことに変わりないであろう

(己(親)の、願望の充足、は隠されすり替えられているであろうから)。

 

babymetalに過大な期待を寄せる者は

babymetalがどのような偉業を達成しようとも、

(身勝手な「愛」故の)不満を漏らすであろう。

思い通りにならない対象への、身勝手な愛、は

やがて、憎悪、へとその歩みを進めるであろう。

 

<ハレ>も<ケ>も最早それらの存在が

許されない今にあって、babymetalは

孤軍奮闘を余儀なくされている。

 

あらゆる、聖域、が踏み荒らされ、

消滅しようとしている時代に、

 神事/祝祭、の場を取り戻そうと

する行為、それこそがbabymetalの使命たる、

レジスタンス、なのではないであろうか。

 

だから、

我我は、babymetalを、地上に引きずり下ろしては

ならない。

神神(とその巫女たち)の姿をただ眩しく仰ぎ見るべきである。

 

俗なる我我はbabymetalに因って浄化され(安寧さを得)ていることを

忘れてはならないのだ。

 

我我は皆自然の一部なのである(the one)。