babymetalを受容する(/しない)世界

アイドル(偶像)を求めるココロを通して妄想でbabymetalを考える

いつか中元すず香に吉田美奈子の「恋は流星(shooting star of love)」を歌って欲しい

golden godsでのdragon forceとのセッションの

動画を観て、

神バンドの「(タイトで)奥ゆかしいバッキング」を

あらためて、認識させられた。

(と云うのも、今回の動画を観てひとつ、耳に新鮮だったことは、

dragon forceのドラマーは、ここで叩きたい、と云う所で、

ちゃんと、クラッシュシンバル、を叩いていること、であったりするからである)。

 

今回のdragon forceと(普段の)神バンドを比較して、

善し悪し、を云うことにあまり意味は無いであろう。

 

golden godsのセッションは、

一緒に演る、ことに意味があるのであって、

それ以上に、(このセッション自体に)何か、を期待することは

できないであろう(もちろん、今後の戦略には関係するであろうが)。

 

 (ジャズほど顕著ではないにせよ)ロックバンド、でも、

インタープレイ、は行われる。

歌の担当は、ヴォーカル、と云う楽器の担当であってはじめて、

バンド内の役割を果たすのであろう。

お互いに演奏中の、煽り、や、ブレイク等の、

抜き/挿し、は、ライヴならではであろう。

 

しかし、babymetalのライヴはplayと云うより、

sacrifice(に近いニュアンス)、であろう。

(儀式はその)細かな形式が破られることなく、

進行して行くだけであろう。

歌と舞と奏、は、ただ一体と成って、

我我を、トランス、に導くのであろう。

我我は同じ共同体の一員として、

儀式に参加するのである。

やがて、3人の少女も供物として

(我我の共通の祖先としての)神に捧げられる日が

来るのであろう。

 

そう考えると、babymetalを取り巻く今の、

熱量、は終わりまで増大し続けるであろうし、

その炎は紅から、白銀の如くに輝くであろう。

 

星(恒星)の最後は美しくあるようだ

(大きくなり過ぎてブラックホールにならなければ良いのであるが)。