babymetalを受容する(/しない)世界

アイドル(偶像)を求めるココロを通して妄想でbabymetalを考える

babymetalは、マヨネーズ(革命)?two

babymetalは、新ジャンル(かわいい+メタル)であるが

しかし、(プロデューサーやマネジメントの思惑とは別に)

オーディエンスの欲望の目線は、融合されたもの(新ジャンル)ではなく、

アイドル(かわいい)若しくは、メタル、のどちらかの極に注がれるであろう。

 

ヒトは、安定を欠く(本当に)新しいものには、順応できない、であろう

(そしてその、新しいもの、の中から都合の良いものだけを取り出そうと

するであろう)。

 

今babymetalは(アイドル側の立場から)メタルサイドからの承認を

取り付けたところであろう(征夷大将軍みたいに)。

そして次のステージ(課題)は、多様なオーディエンスに応えることの

出来る、枠、を用意することであろう。

 

モッシュ、では無い、モッシュッシュ、が実現出来るか否か、は、

新ジャンル、の面目躍如たらしむところであろう。

dance to babymetal?2

su-metalは、(インタヴューで)常に、

自分たちの、ライヴ、を観に来て欲しい、と、

「訴え」続けている。

 

babymetalとは、

ヴォーカル、ダンス、スクリーム、そして神バンド(のプレイ)、の

「複合」が獲得した、「全体」性、であろう。

そして、その事を最も顕著に表現できるものが、

ライヴ、であろう。

 

(音源だけの)視覚情報、の無い、babymetalはbabymetalではない、であろうし、

スタジオ録音のCDは言わずもがな、ライヴ録音でも、映像作品でさえ、

babymetalの、一部、でしかないであろう

(だから、我我は「現場」で、熱、や、匂い、さえ感じることができる)。

 

パッケージ、としての商品が売れない、と云われる今に、

「実演」を売ることに(ニーズも含めて)価値を見出すのは、

容易ではあるであろう。

が、しかし、このことは、音楽産業が今まで構築してきたシステムを

(大袈裟に云えば)破棄、することになるであろう。

 

「複製」を売ることで、産業化、してきた業界に背を向け、

昔、に戻ることのリスクは高いであろう

(肉体労働、を延々と続けることは、消耗、を意味するであろう。

だから、小出し、にせざるを得ないことは想像に難くない)。

 

リリースの頻度/間隔や、ライヴの頻度は、現時点の体制の

出来る限り、であろう。

babymetalと云うlabは現代では誰もやろうとしない

「実験」を行っているサナカなのであろう。

 

我我はその「実験」をただ固唾をのんで見守るだけである

(例えば、su-metalに漂うある種の「悲壮」感、は、その実験の、

困難さ、故かも知れない)。

 

for kitsune-sama's sake(/thank kitsune-sama it's babymetal!)

新曲がリリースされないことや、

ライヴの本数が少ないことが

話題になるが(と書いている間に幕張で新曲、国内ツアーのスケジュールの発表が)、

babymetalのパフォーマンスが、祭り/神事、なので、

その、内容/回数、が大きく変わることは無いであろう。

 

「ケ」が日常でない、ただの、(退屈な)仮の宿、的に

やり過ごす時間である人人にとって、

「ハレ」に対する欲求は増すばかりであろう

(デフレ的に、だだ漏れ、が望まれるであろうし、飽きれば捨てるであろう)。

 

babymetalは、祭り、と云うものの本来の在り方を忘れていた我我に、

改めて、問いかけをしているのではないであろうか(だからbabymetalは

常に、インフレ)。

 

我我は神神に感謝しつつ(甘んじて)年一回のカーニヴァル

心待ちにするべきであろう。

 

 

dance to babymetal?

ダンス、無しの音楽は在っても、

音楽無しのダンスは想像出来ないであろう。

 

ヘヴィーメタルに、「ダンス」要素、が薄い(と云うかほとんど無い)

のは、かなり「モダン」な事(西欧的な進歩史観ではであるが)

であるように思われる。

 

ブラックミュージックは常にダンスと共に

(と云うより、不可分で)あるであろう。

新しいスタイルの音楽が生まれると(同時に)

それにピッタリ似合う(服のような)新しい

ダンスも登場する。

 

肉体(肉声も)は、暑苦しい、ものであろう。

生々しくその存在を突きつけてくるであろう。

そして肉体が音楽に反応して舞う時、

音楽との、ズレ、が「揺れ」を生じさせ、

更なる暑苦しさを感じさせるであろう。

 

ヘヴィーメタルはブルースに憧れないであろう。

むしろその在り方は、バッハ的なものを

希求するであろう。

いくらギターの音が歪みを増そうとも、

その音量が上がろうとも、

髪の長さを伸張しようとも(見た目の暑苦しさは増そうとも)

揺れ、は回避されようとするであろう

(「腰」には、来ない、が衝動は誘発されるため、

モッシュやダイブ、なのであろう)。

 

babymetalはメタルにダンスを持ち込んだ。

彼女らのダンスは徐々に精度を増し、

揺れ、の少ないものになって来ているであろう(メタル化)。

 

が、ダンスはダンスである。

 

全体が、ジャスト、を求める中で、

揺れ、を内蔵した、ダンス、を投入された

babymetalはもう、メタル、とは呼べないかも知れない。

(mikikometalの振り付けも、小節アタマで始まらなかったり、

小節を跨いだり、多分にシンコペイション的)

 

新しいジャンル、の面目躍如であろう。

 

アイドルは踊るのである。

アイドルイコールダンスする者、であるならば、

メタルとアイドルの融合、は当然のように、

ユニークな存在を生み出したのであろう

(しかし、我我はbabymetalで踊れるのであろうか。

それはまた機会を譲ることとしよう)。

 

babymetalは、親切、である その2(そして神バンドとその献身)

I believe in things that are developed through hard work.

苦労して形になったものを僕は信用する。

 

引き延ばされた自殺、をしたとも思える人生を送った、

ジャズピアニストのビル・エヴァンズの残した言葉である。

 

 through art,you can be shown part of yourself you never knew existed.

That's the real mission of art.

芸術によって、
人間は自分すらその存在を知らなかった自分自身の一部を教えられるのだ。
それこそ、芸術の真の使命というものだ。

彼は(上記)とも云っている。

 

babymetalが云う、レジスタンス、には、

殺戮は無いであろう。

彼女たちは(ただ、ココロの)武装解除を求めているだけであろう。

 

我我が、善い、と思うモノをそのまま楽しめば、

それが、babymetalのレジスタンスが成就したことになるであろう。

 

「音楽には、善い音楽、と、それ以外、しか無い(大意)」とは、

デューク・エリントンの言葉であるが、

しかし、その区別は、聴く者に委ねられているのである。

聴く者の、喜び、を喚起しない音楽は(それを聴く人にとっては)

「それ以外」に括られるだけであろう。

 

banymetal(と神バンド)の鳴らす音楽(hard workに支えられた)が、

(我我を解きほぐし、我我が)美しいものを享受できるフラットなココロを獲得する、

端緒、であることを喜びたい。

 

babymetalは、親切、である

大阪の「おばちゃん」の、傍若無人ぶり、は四海に轟いている、ようである。

(しかし)彼女たちは、目の前に居る人には、

非常に(と云うか度が過ぎて)やさしい。

 

大阪は、都会、では無い(日本国内で都会と呼べるのは、東京だけであろう)。

非常に(と云うか度が過ぎて)規模の大きい、田舎、であろう。

ただ、一般的な田舎と異なるところは、

上位概念としての、権力、に嫌悪を感じ、

それを隠さない人人の棲む田舎である、ところであろう

交通違反で警官にキップを切られてるオッサンで怒鳴り散らしていない

ヤツを見ない方が珍しいくらい)。

 

 

産業、として確立する以前のポピュラーミュージックの原型(みたいなもの)の

在り方は、(マスメディア不在に因り)プレイヤーとオーディエンス、の

関係は、親密さ(及び、曖昧さ)が今よりも、大きかったであろう。

 

レコーディングされたモノ、を売る為のパフォーマンスではあり得ないから、

目の前の客を満足させることのみに注力されていたはずであろう。

 

babymetalのライヴのfun(ny)さ、は、

(CDのプロモーションだ、とは決して感じさせない)

その瞬間だけの其処に居合わせた人人の為だけに

行われる、特別、な体験故であるからであろう。

 

一期一会、と云う言葉を、大阪のおばちゃんは(きっと)知らないであろう。

しかし彼女たちは目の前に居る困っている人には手を差し伸べるであろう。

babymetalの3人がライヴで見せる全力のパフォーマンスと同じノリで。

いつか中元すず香に吉田美奈子の「恋は流星(shooting star of love)」を歌って欲しい

golden godsでのdragon forceとのセッションの

動画を観て、

神バンドの「(タイトで)奥ゆかしいバッキング」を

あらためて、認識させられた。

(と云うのも、今回の動画を観てひとつ、耳に新鮮だったことは、

dragon forceのドラマーは、ここで叩きたい、と云う所で、

ちゃんと、クラッシュシンバル、を叩いていること、であったりするからである)。

 

今回のdragon forceと(普段の)神バンドを比較して、

善し悪し、を云うことにあまり意味は無いであろう。

 

golden godsのセッションは、

一緒に演る、ことに意味があるのであって、

それ以上に、(このセッション自体に)何か、を期待することは

できないであろう(もちろん、今後の戦略には関係するであろうが)。

 

 (ジャズほど顕著ではないにせよ)ロックバンド、でも、

インタープレイ、は行われる。

歌の担当は、ヴォーカル、と云う楽器の担当であってはじめて、

バンド内の役割を果たすのであろう。

お互いに演奏中の、煽り、や、ブレイク等の、

抜き/挿し、は、ライヴならではであろう。

 

しかし、babymetalのライヴはplayと云うより、

sacrifice(に近いニュアンス)、であろう。

(儀式はその)細かな形式が破られることなく、

進行して行くだけであろう。

歌と舞と奏、は、ただ一体と成って、

我我を、トランス、に導くのであろう。

我我は同じ共同体の一員として、

儀式に参加するのである。

やがて、3人の少女も供物として

(我我の共通の祖先としての)神に捧げられる日が

来るのであろう。

 

そう考えると、babymetalを取り巻く今の、

熱量、は終わりまで増大し続けるであろうし、

その炎は紅から、白銀の如くに輝くであろう。

 

星(恒星)の最後は美しくあるようだ

(大きくなり過ぎてブラックホールにならなければ良いのであるが)。